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今日の中国はお金が第一の拝金主義社会になった

「人間としての良性」をすべてかなぐり捨てなければ生きられない、この世の地獄を生き抜かねばならなかった中国の人々には深い同情を覚える。しかし、その後、人間性のリハビリもないままにお金や技術を外国から招き入れてひたすら経済発展に努めたとしても、そんな社会には自ずと限界がある。

とかく紋切り型に「今日の中国はお金が正義の拝金主義社会になった」といわれるが、拝金主義自体は中国に限らずアメリカでも、私たちの国日本でも、程度の差こそあれ蔓延している。問題は拝金主義という現象の土台に何があるかである。

中国の拝金主義の土台には「生きたまま腸を抜かれるかもしれない」という途轍もない「恐怖」に支配されてきた民族の記憶がある。農薬の濫用、毒食事件について話すとき、中国のエリートたちからは「残念ながら農民や貧乏人には無学な者が少なくないせいだ」との意見がよく聞かれる。

こうした意見を聞くたびに私は大きな疑問を感じてならない。無論、知識の不足も問題のひとつではある。しかし信頼ある情報がきちんと伝わる社会であれば、農薬の毒性を理解できないほど中国の農民は総じて馬鹿ではない。

しかもおぞましい毒食事件の多くは、無知な農民の「単独犯」ではなく、彼らを指導する立場であるはずの幹部や、無知でないはずの都会人が絡んで成り立っている。ちなみに無知でないはずの官僚・政府幹部らの実態を最近、英国BBCが次のように伝えた。

北京市検察機関からの情報として1990年代半ばから今日までに、2万人弱の汚職官僚が国外逃亡を果たし、持ち出された金は8,000億元(約12兆円)に達した。

持ち出した額は1人平均4,000万元(約6億円)にのぼる。GDPの差から考えると日本の10倍ぐらいの重みがある額である。すべては土地開発絡みの資金や税金、金融機関からの借入金、国家建設プロジェクト資金などから横領されたものである。

文化大革命の半世紀も前、魯迅の嘆きはこの数年、私は好んで中国奥地の山村を訪ねてきた。今も薪で煮炊きをするような農家の人々とのつかの間の交流を試みるためだ。

そして十分とはいえないながらも鄭義がいう「凄まじい醜い中国人社会のなかにも人間的な暖かさがある」ことを実感したという思いがある。そのうえで強く感じることがある。中国の農村で農薬の杜撰な取り扱い等が止まないのは、物心両面の貧しさ、ことに精神の貧しさが、人々を「なりふり構わない」境地へと誘うからだ。

自分をも他者をも大切に思うことができない病魔の根には、搾取する一方の為政者や社会に対する深い不信が関係している。現在の共産党政権に限らず、中国では為政者と民の間に一定の信頼関係が結ばれたことはおそらく歴史上一度もないだろう。民衆は常にならず者さながらの権力者に踏みつけられ、殺戮や飢えに脅かされてきた。

20世紀初頭の中国の作家、魯迅は、日本へ留学して中国とは異なる日本社会のありように触発されたといわれる。帰国後、辛亥革命に身を投じる一方で「阿Q正伝」「狂人日記」などの小説を著し、中国社会の根深い病理を描き出した。「狂人日記」には次の一説がある。

「自分では人間が食いたいクセに他人からは食われまいとする。だから疑心暗鬼でお互いジロジロ相手を盗み見て考えを棄てて安心して仕事をし、往来を歩き、飯を食い、睡ったらどんなにか気持ちがいいだろう。」

こうした魯迅の嘆きも空しく中国の病はその後も快癒へは向かわず、文化大革命の時代、その「病状」は悪化の頂点を見た。「食人宴席」の筆者の鄭義も魯迅の言葉を用いている。

「子供を救え」とは偉大な思想家、魯迅が今世紀の初め頃、中国人に呼びかけた言葉だ。四千年の食人史をもった中国では大人は人間を食らったが、しかし子供はまだ人間を食っていないかもしれない。

少し前、日本のテレビ番組で今どき中国の富裕層の親子連れに流行る「とんでもない娯楽」を紹介していた。放し飼いの肉食動物の待ち構えるところへ小動物などの生き餌を放し「食われる様子」を見るショーである。

ブランド物で着飾った親たちは、先を争って札びらを切って生餌を買い、繰り返し、繰り返し、血なまぐさい光景を見ては、親子で歓声を挙げるのである。欧米の動物愛護運動家がこの種の施設を閉鎖するよう抗議したそうだが、中国人にすればこれは社会教育」なのだから「放っておいて」というところだろうか。

思想的に失われた八〇年代

丸山真男が展開したような公共哲学に根ざした政治学も徐々に衰え、代わりに、「刺激-反応」のモデルで人間をとらえる行動科学に基礎をおいたアメリカ政治学が輸入されるようになります。八〇年代からは、政治の「あるべき理念」には関心を示さず、現にある政治システムをいかに「説明」するかにもっぱら関心を寄せる実証主義が主流となりはじめました。そしてさらに問題なのは、いわゆる哲学の領域です。社会科学と切断され「文学部の一学科」と規定された哲学では、プレ専門化時代に展開されたような公共哲学を本格的に学ぶことも、教えることもできません。公共哲学を学ぶためには、同時代の政治や経済の知識が不可欠なのに、文学部のなかの「学科哲学」は、そのような科目を必修科目とすることができないばかりか、政治や経済に無関心なことを哲学の伝統と勘違いする知のシステムをつくってしまったのです。

したがって、哲学系の学界では、アリストテレス、ロック、ヒューム、カント、ヘーゲルなどの研究も、単なる文献学的レベルでしか評価対象とならず、彼らが追求した問題をいかに現下の社会状況で活かすかというテーマは不問どころか異端視されてしまうような事態を、今日にいたるまで再生産しています。日本で哲学者と呼ばれている人たちの多くが、その実、西洋哲学の解説者=哲学学者にすぎないのは、本当に嘆かわしいことだといわなければなりません。かくして、七〇年代以降、社会科学界や哲学界は著しく創造性を失いました。それを本書は、「学界の業界化」と呼びたいと思います。

そもそも学問の世界は、「それまでの蓄積をもとに批判と創造によって不断に更新されていくべき公共知」が主に追求されなければなりません。しかし、そのようなダイナミックな公共知が展開されず、同業者仲間のピアレビュー(仲間うちの評価)やネポティズム(縁者びいき)によって、学問がなかば「私化」されていくような状態は、学界の業界化にはかならないでしょう。このような「業界化された学界」は今日にいたるまでつづいています。さきで述べたように、まさにそうした状況を「学問の構造改革」によって打破しようというプログラムを公共哲学は掲げるわけですが、本章の最後にどうしても、八〇年代以降の日本社会と思想状況に言及しないわけにはいきません。というのも、この二〇年の間に、公共哲学的観点からみて、日本社会は大きく遅れをとってしまったように思われるからです。

キャッチアップーポリシーの目標を達成した後の八〇年代は、日本が戦後世界のモデルとなりうるかのような日本文化論が盛んに語られる一方で、ファッションとしての思想が流行し、学校という現場では時代錯誤的な管理教育が行われた奇妙な時代でした。本書はこの時代を「思想的に失われたI〇年」とみなしたいと思います。まず、日本文化特殊論では、アメリカの学者(エズラーヴォーゲル)が「ジャパンーアズーナンバーワン」をとなえ、それに便乗するかのように日本の経済システムや経営システムの卓越さをうたう本が多く出版されました。戦後、アメリカとの軍事同盟の傘の下、米欧の経済に追いつき追い越せという目標が達成されたとたん、今度は米欧に対する優越感をもって日本文化特殊性をとなえる書物が多数刊行されたのです。

これらには、穏便なものから、明らかにエスノセントリズム(白文化中心主義)の傾向をもつものまで含まれますが、日本の良き伝統の見直しが前述したような公共哲学的伝統の再評価に向かうことなしに、単に現状肯定的で没批判的な文化論として行われたところに、大きな問題があったといってよいでしょう。八〇年代終わりにはその反動として、日本には責任ある政府の公権力がそもそも存在しないと断言するような極論(ウォルフレン『日本/権力構造の謎』)も現れましたが、公共哲学的に深みある論争は生まれませんでした。

温暖化被害に対応する

好むと好まないにかかわらず、ベネズエラのウーゴーチャベス大統領などは、先進工業国が温暖化の主因を作ったからには、地球温暖化防止に要する費用は、富める国が負担すべきだとし、このような歴然たる事実を議論することすら現実的でないと主張した。しかし、これは哲学教室では良い議論になるかもしれないが、現実の世界では、政治的に通用しない主張なのだ。二つ目の手掛かりは、この合意に関与した他の国、すなわち、中国、インド、ブラジル、南アフリカにある。まず留意して欲しいのは、これらの国が、有名な。ブリッグス(BRICS、ブラジル、ロシア、インド、中国の略ごでないことだ。ロシアが含まれていないのは、汚染度の高い原油と天然ガスの産出国であり、ロシアはどんな合意にも興味がないからだ。

しかし、これら四力国は、最大の発展途上経済国である。いまや世界は、ショージープッシュ氏の一方的な外交政策から、多角的な外交政策に移っているかもしれないが、それでも強大国は弱小国よりも重要なの愕あ右。このグループが、悪名高い。G2(アメリカと中国の二超大国ごと別だったのは、他に参加している発展途上国が、中国を自分たちの代弁者として求めなかったからだ。また四カ国は、日本やEUも合意に関与させたくなかった。というのは、合意が最終的に受け入れられるのは、当然予想されたからである。中国、インド、ブラジル、南アフリカが参加しなければ、アメリカはこの合意を承認しなかっただろう。では、四カ国は、どういう理由から合意したのだろうか。

一部には威信の問題があった。つまり、自分たちの重要性を誇示したかったのだ。他に考えられるのは、お金の問題である。彼らが、インドと南アフリカ、さらに他の貧困国に配慮したからだ。これらの国々は、温暖化被害に対応するため、先進国から毎年一○○○億ドルの資金援助を受ける約束を取りつけている。ただ、これが約束通りに実行されるかは疑わしく、他の支援金が削減されることも考えられる。しかし、彼らが合意文書を承認した主な理由は、この合意の法的拘束力が最小限で、その大半が延期されたからだろう。発展途上大国は、この交渉を決裂させて、次の温暖化対策サミットが開催さ考まで数年待つよりも、合意したほうが得策だと考えたのである。

すべては、次にどの才つな手段がとられるかにかかっている。アメリカは、議会で法案の承認を得なければならない。さらに中国、インド、ブラジル、それに南アフリカは、後になって条件が不利になる前に、この期限つきの合意を固める条約を、二〇一〇年に具体化する動きに出るだろう。しかし、小国や貧困国は、疑いもなくこの動きに反対し、より多くのことを求めるに違いない。だが、現今の世界では、大国と強大国が采配を振るっている。単にその大きさと力強さの序列が変わっただけでおり、いまでは中国、インド、ブラジル、それに南アフリカが含まれている。とりわけ中国は最も重要である。それは同国が二酸化炭素や他の温室効果ガスの世界最大の排出国であるだけでなく、欧米企業の最大の競争相手と見なされているからだ。もし、中国の企業が二酸化炭素の排出に、高額投資を行なう必要がないことで、欧米の競合企業が不公平な立場におかれるならば、欧米では、保護主義がより大きな政治的勢力として台頭するだろう。

すでにアメリカでは、この春の議会で、同国が行なっている排出量規制と同等の規制を行なわない輸入国に対して、関税を課すことができる権限を、欠陥だらけのCOP15に追加する論議をしようと話し合っている。アメリカの排出量規制は、二酸化炭素排出の排出量取引の一種から始まるだろう。それは、政府が排出量削減目標の上限(キャップ)を決めて、実際の排出量に許可証を与え、その許可証を取引(トレード)できるように価格を定め、汚染を防ぐものである。この、キャップーアンドートレード々方式の合意は、当初から脆いと考えられている。というのは、アメリカ議会が、有利になる許可証を多く与えるよう、圧力をかけたからだ。だが、その脆さは、いったんその方式を確立させた後に、許可数を減らし、価格を引き上げさえすれば解消できる。これはヨーロッパで実際に行なわれたことである。

労働者派遣法が労働者保護的なものに

このような非正社員の怒りや労働運動、それを表面的には支持するマスコミや世論に直面して、政府は非正社員を保護する政策を採用するようになるだろう。政治家が気になるのはいつも選挙である。選挙で勝利するためにはマスコミや世論に敏感にならざるを得ないため、多数派の非正社員の声を無視できなくなるのだ。まず、労働者派遣法が労働者保護を目的として強化される可能性が高い。本書執筆時点の2009年4月上旬の段階では、昨年国会に提出された労働者派遣法の改正案の審議の目処は立っていないが、この改正案の行方だけでなく、今後5年先までの動向を視野に入れると、様々なものが争点に上がってくるだろう。

いくつか例示してみよう。まず、労働者を派遣できる業種をどうするかということである。今回も製造業への派遣を禁止すべきかどうかで議論になったが、最終的には「ネガティブリスト化をやめるかどうか」というレベルまで議論が発展する可能性がある。労働者派遣法の当初の考え方というのは、専門分野の労働者を派遣するということに主眼があった。そのため、16業務しか派遣が認められていなかったのだが、徐々に対象を拡大してきた歴史がある。

1999年にはネガティブリスト化(派遣してはいけない業種を列挙して、残りは派遣してもよいことにする)したのだが、これを以前のポジティブリスト方式(派遣しても許される分野を列挙する)に戻すのである。第二に、派遣社員だけでなく契約社員やパートタイム労働者を含めて、非正社員の待遇を改善するための政策をどこまで実施するかである。例えば、職業訓練を受けやすくする、雇用保険を受給しやすくする、家族のある非正社員の場合には住宅を供給するなどの措置だ。今回の派遣切りでは、世論の支持もあって様々な策が即座に打ち出されたが、どれもこれも財源が伴う措置だ。どこまで手厚くすべきなのか、その負担は誰が負うのかは問違いなく議論になる。

第三に、派遣会社に対する規制についてである。金融危機以前から、派遣会社の違法な二重派遣などが問題視されてきたのは周知の通りである。いくら若い企業とはいえ、上場企業にあるまじき不祥事もあった。そのため、派遣会社に対する規制を強化すべきという議論は根強くあるが、争点となるのは規制のレベルだろう。最も強硬な意見としては、派遣料金から派遣労働者の賃金を引いた上限を定めるというものである。いわば、派遣会社の儲けの額を固定するのだ。それに対して、政府が昨年に国会に提出した労働者派遣法の改正案は、派遣料金、派遣労働者の賃金、これらの差額の派遣料金に占める割合等の情報公開を定めている。

第四に、派遣労働者を受け入れる企業に対する規制のあり方である。当面、争点となってくるのは、派遣労働者の受入期間だろう。現在は最高3年まで派遣労働者を使っていいが、これを以前のように1年間に短縮するかどうかが議論となるのではないだろうか。また、「派遣労働者の給料と正社員の給料をどのようなバランスで決めるのか」ということについても議論となるだろう。

北朝鮮映画が経済教育に力を入れている

もちろん家父長的な社会における女性の自己実現には、社会的・家庭的な制約がつきまとう。社会的な性差別も問題であるが、特に女性の育児と家事負担という性的役割分業は、女性の自己実現にとって大きなさまたげになっている。夫と子どもという「他人」に尽くし、彼らの成長と成功を通じて自分の存在意義を確認する「他人志向」の存在である良妻賢母から脱し、自分を見出そうとする北朝鮮女性の姿を期待したい。北朝鮮映画が経済教育に力を入れている。北朝鮮映画が経済をテーマにしたのは、きのう、おとといのことではないが、現在のように集中的に経済問題を押し出したのも珍しい。それだけ経済問題が重要だという証拠でもある。経済と関連して語るべきことも多く、テーマも単刀直入なものになっている。

映画というジャンルを通じて自然に何かを見せるというよりは、人民に対してこれでもかと繰り返し強調するのが北朝鮮式だ。だから、経済政策の方向性がはっきりとあらわれる。映画で経済問題を形象化するのではなく、テーマに映画が服従する状況である。経済問題を扱った映画としては、貝の養殖場建設をテーマとした「わが故郷の海」、戒興青年牧場建設の実話を映画化した「明日の開拓者たち」、実績よりは実利をテーマとした「夫婦支配人」、「セリョンマルヘ」、「祖国の地の果てで」、製品の品質改善を扱った「春の香り」、養魚場と発電所および農村建設をテーマとした「彼らは除隊兵士だった」、志願で六年間も軍隊生活を延長勤務したのち、今度はジャガイモ農場に志願した「待つ乙女」、草を肉に変えることを主題にウサギの飼育を素材とした「畜産班長の教訓」、炭鉱の食糧問題を自主的に解決する「新米女性引継係」、光明星製塩所建設現場を素材にした「夫婦手帳」、電力生産のために命を賭けて石炭を掘る炭鉱突撃隊の話を取り上げた「タンポポの花束」などがある。

以前も苦難の行軍をテーマにした「慈江道の人々」のような映画があったが、最近の傾向とは異なるものだった。経済関連映画の創作本数は大きく増えたが、ただ感情的に、党の政策に従わなければならないと訴えるような作り方ではない。経済問題にまつわる葛藤も熾烈で、具体的な事件を通じて描かれ、経済における実利とは何か、人民経済建設はなぜ重要なのかを、一つ一つ取り上げ説明してくれるような語り口だ。まるで、成功した企業や優秀な例を映画化して紹介しているようだ。相対的に隠喩や比喩が減り、説明が長くなる。相対的に娯楽性は減り、情報量が増えている。

映画のストーリーが実話に基づいていることも、これまでになく強調する。「春の香り」、「待つ乙女」、「畜産班長の教訓」、「彼らは除隊兵士だった」などの映画では、「最高指導者」に対する言及が劇中人物たちのせりふで処理されていたこれまでとは異なり、キムージョンイル国防委員長のスチール写真が登場して、映画内容に関連した現地指導や取材場面、報道場面が現われる。かつては見られなかったこのようなシーンは、映画が事実であることを強調するのに実に効果的だ。北朝鮮の映画が芸術映画でありながら、芸術性をあきらめてまで強調しようとする主題は、断然「実利」である。社会主義体制を維持しながら実利を生かすというのはどういうことなのか、具体的な成功談をあげて示してくれる。

「夫婦支配人」は、それぞれ醤油工場と合成樹脂工場の支配人を務めるオンニョとソックン夫婦が、工場評価競争でくり広げるエピソードを描く。効率を無視して生産量を強調したオンニョの醤油工場は中間評価では一位を獲得するが、エネルギー効率と投資に対する生産性を基準とした最終評価では最下位となる。科学者から合成樹脂工場支配人となった夫のソックンは、工場の非経済的な問題を解決していく。彼は、二時間を超す会議時間を一五分に減らし、問題が起これば現場ですぐ解決し、容量に合った部品を開発して効率を重視する方法で工場を運営した結果、最終評価で一位となる。「セリョンマルヘ」では、実利問題が一層深刻な葛藤を引き起こす。織物工場の生産管理局長は、生産量は超過達成したものの、不良品が多く、製品の修繕費用まで含めるとかえって赤字になるため、工場をとめて根本的な対策を考える。人民経済も重要だが、実利に合わない工場は廃棄されねばならないという主張により、工場は生産をやめ、新しい生産方法の開発に乗り出す。

「医療貧困」から脱出するための道

二〇〇三年には麻薬管理法を制定した。北朝鮮が一九四九年に制定した麻薬に関する規定を五四年ぶりに大幅に改正したものである。これは、北朝鮮が麻薬にまつわる国際犯罪を行なっているとされていることへの法的な対応を意味する。同時に、北朝鮮国内も麻薬の安全地帯ではないことを示唆している。開城工業団地と金剛山観光特区で、韓国の保健関係者が開城工業団地の労働者と金剛山観光客のための保健医療サービスを始めたことがあげられる。特に開城工業団地の場合、北朝鮮の労働者は韓国の保健関係者の診断と治療を受けている。また、もし長期的な治療が必要だと判断されれば、回復するまで韓国の病院で入院・通院治療を受けることができる。これについては様々な解釈ができるが、とりあえずは、北朝鮮が開城工業団地の労働者たちの保健医療に対する責任を韓国に転嫁したと見てさしつかえないだろう。

このようなキム・ジョンイル時代の北朝鮮の保健医療の特徴は、大きく三種類に要約できる。一つは制度的な側面で、法的な整備を通して、国際社会との意思疎通に関心を傾け始めたということだ。二つ目は、このような法的な努力と苦労に比べ、北朝鮮の保健医療の現実は相変わらず「医療貧困」の状態にあるということだ。いいかえれば、苦難の行軍当時崩壊した保健医療体制が、相変わらず泥沼から脱出できずにいるのだ。そして三つ目は、北朝鮮が開城と金剛山という特定地域に限り、韓国の保健医療サービスを許容したことである。このように、持続性と変化の両面からアプローチするならば、キム・ジョンイル時代の北朝鮮の保健医療体制はさらに悪化したが、その一方で一定水準の制度的な整備と、特定地域に限っての韓国の保健医療サービスの許容が実現した、とまとめることができる。

もう一つ指摘するなら、キム・ジョンイル時代の保健医療体制が正常に稼働するためには、国際社会の持続的な救護と支援、北朝鮮のめざましい経済成長、制度的な内部改革があってこそ、可能になる。もしこの中の一つでも欠ければ、北朝鮮は「医療貧困」から永遠に脱出することができない。北朝鮮で最初の刑法は「朝鮮民主主義人民共和国刑法採択に関して」という政令で、一九五〇年三月三日に定められた。この刑法が人民民主主義刑法だとすれば、一九七四年の刑法は社会主義刑法というべきもので、現在の北朝鮮の刑法の根幹をなしている。

朝鮮民生王義人民共和国社会主義刑法は、一九七二年の社会主義憲法採択に伴い、同年一二月一九日に最高人民会議常設会議決定第九号として制定され、一九七五年二月一日から施行された。その後、八七年二月五日の最高人民会議常設会議決定第二号として改正された(第一次改正)。九〇年一二月一五日、最高人民会議常設会議決定第六号として新たな採択があり(第二次改正)、九五年三月一五日の最高人民会議常設会議の決定第五四号として修正補完された(第三次改正)。さらに九九年八月一一日に最高人民会議常任委員会が政令第九五三号として修正した(第四次改正)。現行刑法は二〇〇四年四月二九日に最高人民会議常任委員会の政令第四三二号として修正補完されたものだ(第五次改正)。

二〇〇四年の刑法改正は「修正補完」だが、以前の刑法と比べれば画期的な変化を見せている。条文の数も以前の八章二八一条から九章三〇三条へと大幅に増加した。この刑法は第一章刑法の基本、第二章一般規定、第三章反国家および反民族犯罪、第四章国防管理秩序を侵害した犯罪、第五章社会主義経済を侵害する犯罪、第六章社会主義文化を侵害する犯罪、第七章一般行政管理秩序を侵害する犯罪、第八章社会主義共同生活秩序を侵害する犯罪、第九章公民の生命財産を侵害する犯罪、で構成されている。もう一つの特徴は、各条文ごとに題目を付けた点だ。現行刑法は、その使命を「犯罪に対する刑事責任および刑罰制度を確立し、国家主権と社会主義制度を守って人民の自主的で創造的な生活を保障することに貢献する」と規定している。

韓国人の理屈好き

「どんな思想でもせいぜい百年ぐらいしか活力を持だない。以後は放っておけば崩れる。守ろうとすれば教条化する。建国後間もない李朝第三代王、だから十五世紀のはじめには武班文班の両班のうち、武班はもう没落している。秀吉の壬辰・丁酉倭乱の頃には、もはや武班の力は衰えきっていた。なぜそうなったか。これもやはり宿命の地政学による。強大な中国と隣あわせであることはどうしようもない事実なわけだ。武をいくら育てたって対抗できるはずもない。ならばいっそ最初から手をあげてしまおうと考えた。朱子学は、いわば平和憲法なんだね。こうして朝鮮は五百年を隠者の国として生きることになる」日本みたいですね。「ただし暴力沙汰はまれだったが、喧嘩は始終あった」両班同士の争い?

「党争もあるし、門中同士の是非(争い)もある。門中是非などは一族をあげての口喧嘩だ。こういうことを李朝ではのべつまくなしにやっていた。口喧嘩というが、実用的にはなんの役にも立だない誇りを食べて生きている両班だから社会的生命を賭けて戦う屏虎是非という有名な事件がある。屏山書院と虎渓書院の是非、つまり争いだね。書院というのは、儒者がそこに寄って後進を指導する場所で、現在も韓国中に散在している。十六世紀に退渓・李滉という巨儒がいた」一〇〇〇ウォン札の肖像になっているひと。「彼には、その衣鉢をつぐふたりの高弟がいた。西圧・柳成龍と鶴峰・金誠一。李退渓の弟子としてどちらを上位に祀るかで彼らの子孫、豊山柳氏と義城金氏が一族をあげて争った。論争の焦点は長幼の序と生前の官位の高低、いずれが優先するかということだ。鶴峰は西圧より四歳の年長、しかし西圧が領議政(首相)まで登ったのに対し、鶴峰は官位の上では地方長官にすぎなかった」

韓国人の理屈好き、観念論好みはそのへんからきているんですかね。尹さんの城平尹氏も青松沈氏と墓地の争いを二百年つづけましたね。われわれもその現場をソウル北方、軍事境界線近くの披州まで見学に出掛け、その墓地の立派さと争いの根深さを実感したわけなんですが。一族のかたがたが、何百年も前の祖先をハルペ(おじいちゃん)と呼び、あたかも生けるがひとのごとく語りあうのにも驚きました。「十九世紀なかば、日本ではアヘン戦争以来、下級武士たちが列強の脅威を体感して大騒ぎだった時代に、わが朝鮮は平和憲法のもとに、この泥田で牛が闘うような身内の争いをつづけていたわけだ」

少なくとも日本では大名の子孫がその先祖の優劣を争ったり、山絲有朋と伊藤博文の子孫が喧嘩するということはないでしょうね。山鯨も出世してから系図をつくりましたが、これは曾祖父の名言え不詳というようなすごいものです。もっとも、はるか祖先の段階ではちゃんと清和源氏につながっていたりもしますが。日本は結局誰もがウマの骨の社会なんてすね。「日本には町人がいた。農民でも侍でもない中間階級がいたでしょう。これが日本の特徴でね。朝鮮では中人だが、中人はすぐに両班に上昇してしまい、職人商人という生産現場の専門家としては育だなかった。日本型封建制と朝鮮型の根本的な違いだなあ」でも、よくここまで近代化がなりましたね。世界一の規模を誇る浦項製鉄所をけじめ、アジアで自動車工業を持っている国は日本と韓国だけでしょう。やはり朴正煕の力でしょうか。

「力ずくで党争をおさえた。少なからず下品なやりかただが、あれしか道はなかっただろうね。少なくとも彼が出現しなければ党争風土は現在も生きつづけたでしょう。ぼくはね、日本の進歩派とおなじように朴正煕は嫌いだったんだよ。強権政治への反発と、それから彼は常民の顔をしていたし」常民嫌いなんですか、尹さんは。「いやいや、それは、あれだよね。一九八二年、三十年ぶりに韓国へ行った。田舎をまわってみて評価をかえざるを得なくなった。ハゲ山だった山が緑だ。朴政権の植林運動の成果ですよ。こまめに枝打ちをしていないから日本のようには太らないが、なにかにつけておおまかな韓国だからね。年に二回は洪水を出した暴れ川の洛東江が、安東ダムの建設で完全に治水されている。行ったのがたまたま三月でね、かかしでいえば端境期だった。農村が飢える頃合なんだ。ところがどこの家をのぞいてみても白い米を食べている。むしろ太りすぎを心配する国になっていた。驚いたよ、ぼくは」と語った。

タイにおけるビールの生産量

タムボン(農村の行政区)の首長を任命制から選挙制に移す法律は、1994年の制定に遡る。しかし地方自治体が実質的な権限を獲得したのは「1999年地方分権推進法」の制定以降の話である。同時にこの推進法は、2006六年までに国家歳出の35%以上を中央政府から地方自治体の歳出に移すことを定めていた。そして2003年末、全ての県自治体、市自治体、タムボンは首長直接選挙制に移行する。時期的にはタックシン政権の時代とはいえ、その準備を整えたのは明らかにチュワン政権であった。しかしタックシン首相は、こうした政治運営方式を根底から覆してしまう。彼は経済政策の決定権をテクノクラートの手から奪い、首相とタイラックタイ党の経済政策策定委員会に移した。膨大な時間とエネルギーのかかる公聴会は、「非効率」という理由であっさりと廃止し、国民への説明会に切り替えた。

地方分権の推進には一貫して消極的な態度を示し、逆に国家戦略にもとづいて、上から地方開発を図る「強い知事」いわゆるCEO県知事の制度を導人した。皮肉なことに1997年憲法が生み出した「強い首相」が新憲法の理念であった「国民参加型の政治」と「地方自治の確立」を、ことごとく否定していくのである。ここまで経済と政治の変化をみてきた。しかし、これだけでは1980年代後半からのタイの実態を説明したとはいえない。というのも、この時期は社会そのものが大きな変化を経験した時代だからである。社会の変化を、


  1. 消費社会の到来

  2. 少子高齢化の進展とストレスの増加

  3. 高等教育の大衆化

という3つの側面から整理する。そして、1997年に国王が提唱した「足るを知る経済」が何を目指しているのかを検討する。まず消費社会の到来である。すでに確認したように、1人当たりビール生産量は、1人当たりGDPを上回るスピードで、しかも1度も落ち込むことなく、一貫して右上がりの上昇を続けてきた。

タイにおけるビールの生産量は、1985年の1億リットルから1995年には6.5億リットル、そして2006年には19.6億リットルへと、飛躍的な伸びを示した。生産量を消費量とみなして、1人当たり消費量を計算すると、タイの22リットルは、日本の55リットルの約6割にも相当する。タイの友人はビール生産量の急増について「外国人観光客が増加したからだ」と、あっさり答えた。しかしビールの生産量をブランド別にみると、外国人観光客が好むハイネケンやカールスバーグは1割に満たない。9割以上は、彼らがあまり口にしないチャーン(象印)ビールか、シンガー(獅子印)ビールであった。とくに、チャルーン・シリワッタナパクディ(蘇旭明)が率いるチャーン・ビールは、価格の安さと豪華景品つきの販売促進戦術をテコに、1994年の5100万リットル(国内シェア11%)から、2000年には7億2600万リットル(国内シェア62%)へと、驚異的な伸びを実現した。チャーン・ビールの顧客はバンコクではなく地方都市や農村である。つまりビール生産量の増加を支えた大きな要因は、間違いなく地方における消費の拡大であった。

タイに関するイメージを聞くと「豊かなバンコク、貧しい地方」といった回答が多い。あるいは「東北タイの経済水準はバンコクの10分の1以下」といった記述もよく見かける。国家経済社会開発庁(NESDB)が発表している1人当たり地域別総生産と、国家統計局が定期的に実施している家計社会経済調査の結果を、1991・1992年と2006・2007年の2時点を採って、地域別に整理したものである。これをみると、確かに東北タイの1人当たりGDPは、バンコクの11%、もしくは21%という低い水準にとどまった。ただし、これらの数字を利用するときには注意を要する。というのも、1人当たり地域別総生産や県民所得は、全産業の付加価値額を地域や県に割り振った上で、それを人口で割っただけの数字だからだ。1人当たり県民所得は、付加価値で測った経済活動の大きさを示すが、県民の可処分所得や消費支出の水準を示すものではない。

そこで国家統計局の家計調査の結果をみると、1991・1992年の時点では、東北タイの世帯収入はバンコクに比べて都市部で69%、農村部で25%であった。最新の2006・2007年の調査をみると、都市部で61%、農村部で31%である。この15年間に、バンコクと地方都市の間では経済格差が広がり、逆に農村部との間では縮小していることが分かる。この傾向は束北部だけでなく、全ての地域に共通している。しかし、ここで強調しておきたいのは、バンコクと地方都市の間で近年広がっている経済格差のほうではない。むしろ消費購買力からみた場合「最も貧しい」とよく言われる束北部であっても、地方都市ではバンコクの水準の6割、農村部でも3割に達しているという事実のほうである。経済ブームによる恩恵が、バンコク首都圏だけではなく全国に及んでいるという事実をわたしは重視したいのである。そうでないとビールの生産量が急増し、、テスコ・ロータス、ガルワールといった大型スーパー、そしてCPセブンイレブンのようなコンビニエンスストアが、次々と地方へ進出していった背景は、到底説明することができない。

「国家政党」としての人民行動党

1986年テー・チアンワン国家開発相が、不動産開発会社から100万$ドルの賄賂を受け取った容疑で極秘に取り調べられていた。だが、彼は取り調べの最中に睡眠薬で自殺してしまい、事実関係は明らかにされないままになってしまった。おそらくテー氏は政治家としての自分の将来に絶望して自殺したのであろう。「クリーンな党」というイメージは国内外に定着し、今や「シンガポールはアジアで最も汚職が少なく、西側先進国のいくつかの国よりも汚職が少ない」と評されている。人民行動党が長期間国民の圧倒的支持を得てきた要因の1つが、この「クリーンさ」であったのは間違いない。政府の要人は決して私腹を肥やしているのではないと国民は信じているがゆえに苦況に耐え、政府の方針に従ってきたのである。この「クリーン」な人民行動党は1954年に結成された。

そして1959年にシンガポールが自治領となるに伴って実施された総選挙で勝利して以来、現在に至るまで一貫して与党の地位にある。その全党員数は公表されていないが、幹部党員は約500人と推定されている。シンガポールには、22の政党が登録されているが、人民行動党に代わって政権を担当すると予想される党はなく、また同党との連合政権の可能性も殆どないため、人民行動党の与党としての安定した地位は当面続くであろう。「人民行動党は単なる政党ではなく、すべての人種、全ての社会集団から支持を受ける国民的政治組織である」という同党幹部の発言からも察せられるように、人民行動党こそが現在のシンガポールの安定と発展を達成した原動力であると党指導者は信じている。また、その長期政権からしても、事実上の「国家政党」であるといっても過言ではない。人民行動党はまた、シンガポールの頂点に立つ政治エリートの集団である。

リー・クアンユーをはじめ「第一世代」と呼ばれる党結成時からの主力メンバーは、独立以前のシンガポールでは極めて少数のイギリス留学組であった。彼らは後に述べるように、エリートだけが国家を正しく導くと信じて疑わない。この「第一世代」の高齢化が懸念され始めた1970年代後半になって「第二世代」指導者が台頭してきたが、この「第二世代」指導者もまた、学歴・業績ともに優れ「第一世代」が厳しい適性審査を行なって選抜した若手のエリート政治家たちである。80年代になると「第一世代」は次々と政治の第一線から退きはじめ、90年にはリーが首相を辞任し「第二世代」指導者は重要な政治的ポストを任されつつある。では優秀なエリートだけが国家を正しく導くという思想を持った彼らは、いかにして権力を握ったのであろうか。また長期にわたって国民の支持を得てきたのは、彼らの清廉・潔白さ以外にどのような要因があったのであろうか。人民行動党の性格やイデオロギーを考えるためには「第一世代」の政治的信条を知ることが極めて重要である。

なぜならば、党結成以来、1980年代初頭まで「第一世代」がシンガポールの政治を担っており、現在でもその影響力は絶大だからである。「第一世代」といわれる党結成時からの主要メンバーは、リー・クアンユー、ゴー・ケンスイ、S・ラジヤラトナム、トー・チンチャイの4人である。党内では「もう1つの党」と呼ばれ、政府内においては「もう1つの政府」と呼ばれる。彼らの卓越した地位は、長期にわたって他の政治家を寄せつけなかった。これはゴー・ケンスイをして「わが国の政治は4人の政治である」と公言させ、また「誰も侵すことの不可能な地位」とも言われていた。確かにこの4人は長期間、党内の最も重要な地位を独占してきた。リー・クアンユーは党結成から1992年3月まで書記長、トー・チンチャイは結成から1981年まで委員長、ゴー・ケンスイとラジヤラトナムはそれぞれ長期間副委員長と政治局長を務めた。また4人は党の最高決定機関である中央執行委員会の常任メンバーであった。一方、政府内では、リーは1959年以来90年まで31年間首相の地位にあった。これは議会制民主主義国の首相としては最も長い在任記録である。

またトーは副首相(1959~1968年)、科学技術相(1968~1974年)、保健相(1974~1981年)のほか、1968年から1975年までシンガポール大学副学長も兼任した。彼は1981年に閣僚職から退き、1984年に党の要職からも退いた。ゴーは蔵相(1959~1965年、1967~1970年)、国防相(1965~1967年、1970~1979年)に就任し、1973年からは副首相も兼任、1980~1983年まで第一副首相兼教育相をつとめて、1984年に引退した。ラジヤラトナムは文化相(1959~1965年)の後、外相(1965~1980年)、1984年まで第二副首相(外務担当)、1985年からは総理府上級相を務め、1988年に引退した。この4人の中でもリー・クアンユーは常に中心的存在で、あらゆる点で最も大きな影響力を行使している。「トップの座にいる4人において最も特徴的なことは、リーと他の3人の隔たりであろう。リーは常に舞台の中心におり、3人は必ず袖に位置する。客席に響くのはリーの声である」「リー・クアンユーはあらゆる政策の意思決定に関わってきた。他の誰よりも主要な役割を果たしてきた」と評され、リー自身、彼が集団指導制のリーダーであり、3人は有能な補佐役であると認めている。人民行動党は「リーの政党」であり、シンガポールは「リー・クアンユーのシンガポール」と呼ばれるゆえんである。

フェミニストの反論

体外受精児が出生してからは、ファイアストーンは体外受精推進派から最大限に利用された。体外受精は体外生殖への第一歩であり、したがって女性を解放するための技術である、というわけである。一九八〇年代の半ばになると、生殖技術に反対する女性たちが活発に発言するようになり、フェミニストは体外受精などの生殖技術に激しく反対しているというイメージができあがった。一九八五年にスウェーデンで開かれた緊急会議で、生殖技術に反対する女性だもの会フィソレージ(生殖と遺伝子の操作に抵抗するフェミニスト国際ネットワークが結成された。一九八四年にはリタ・アルディッティ、レナータ・クラインなどによって『試験管の中の女』が出版されて大きな反響を呼んだ。性の選択、障害をもつ者の排除など技術の優生学的な利用に対して警鐘をならすとともに、これまで女性が支配してきた領域である生殖が医療化されることによって、男性の支配のもとにおかれるのではないかと強く危惧ざれたのであった。

そして国に対しては体外受精などの新しい生殖技術を禁止することを求めたのである。ドイツでは女性たちの地下組織が、体外受精を実施している病院を爆破するという過激な行動にでたり、すべての女性はテクノロジーに反対しなければならないという主張さえあらわれた。ヴィクトリア州では彼女たちの主張は、カトリック教会や生命尊重派と一緒になることによって、厳しい法律を制定する方向で大きな影響力をもった。生殖技術の推進派がファイアストーンを盛んに引用したように、反対派は生殖技術に反対するフェミニストの議論を使ったのである。「不妊医療手続法」を審議していた州議会では、厳しい法律規制を主張する保守派の議員が、自らの議論を補強するために彼女たちの著書を紹介し、新聞は新しい技術の開発が報告されると、それに対する反対論を展開する人物として、カトリック系の倫理学者とフェミニストを判で押したように登場させていた。

私が、生殖技術に関心をもちはじめたのはちょうどこんな時期だった。日本でも、「クループ・女の人権と性」が中心となって、『試験管の中の女』が翻訳され、生殖技術をめぐってシンポジウムが開かれ、『アブナイ生殖革命』(青木やよひ他、有斐閣、一九八九年)などが出版された。彼女たちの生殖技術に対するスタンスも、フィソレージとほぼ同様だった。シンポジウムなどに参加してみて、私はつぎの三つの点に疑問をもった。第一に、安全で確実な避妊、安全な人工妊娠中絶、さらには安全な妊娠・出産管理など、生殖技術の発達は、いまだ完璧な技術でないことはいうまでもないが、女性に多くの福音をもたらしてきた。体外受精などの新しい生殖技術について反対する場合、同じ生殖技術なのだがどこに線を引くのだろうか?自然の生殖過程への介入に反対するというが、人工妊娠中絶はまさに自然の生殖過程への介入だが、それにも反対するのか?

第二に、彼女たちの主張が子どもは愛しあう夫婦という関係のなかで誕生しなければならないという点で、カトリック教会や生命尊重派などの伝統的な考え方と奇妙に一致していることである。家族のあり方や中絶については両者はまったく異なる主張をしている。フェミニストは女性の自己決定権として人工妊娠中絶の自由化を主張し、いっぽうカトリック教会や生命尊重派は中絶の禁止を唱えているのである。フェミニストが家族観や人工妊娠中絶についてはまったく考えの異なるグループと、体外受精などの生殖技術については同じ主張をすることに違和感を感じないではいられなかった。そして何よりも、彼女だもの科学や技術というものに対するスタンスが、私とは基本的に異なるのである。L・S・スタヴリアーノス教授は、ユニークな歴史観を展開している書物のなかで、つぎのように述べている。

「テクノロジーが、男女関係の本質にかかおる決定的な触媒のはたらきをしており、女性が家庭から出て外で働く機会を与えた十八世紀の繊維機械類にせよ、自分たちの身体と仕事をコントロールしやすくした避妊ピルにせよ自然である。(中略)テクノてシーは次々に進歩して、女性は、果てしない妊娠と家事という束縛から解放され、男性に匹敵する人数が、家庭以外の労働力に参入できるようになった。」(L・S・スタヴリアーノス著、猿谷要監訳『新・世界の歴史-環境・男女関係・社会・戦争からみた世界史』桐原書店、一九九一年)女性の状況は、科学や技術の発展と大きく関係している。農業社会から工業社会への移行のときには、女性が家庭という分野にとどまった、またはとどまらされたことが、男女間に性による分業を成立させ、そのことが今日の男女の不平等の一因となっているのではないだろうか。したがって科学や技術に対する拒否というスタンスは、極めて危険なものと言わなければならない。

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